国鉄の残滓を求め、2016年3月で運行を終える急行はまなすに乗りに行きました。
昭和末期に生まれ、長く平成の世を駆け抜けてきたは急行まなす。昭和の香り、昭和の空気を運び続けてきた貴重な列車でありました。
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東京発倶知安行き。営業距離は約1,300kmにもなる(この旅行記では、青森→札幌の区間だけの取り扱いですが)。
反転フラップ式か、吊り下げ式の方が良いね。面倒くさ過ぎるんだろうけど。
これこれ!これがあってこその優等列車。しかし、これしかないというのは寂しい限り。昔はきっとあけぼのとかゆうづるとか、たくさんあったんだろうな。
今宵のカマは13号機。やはり国鉄機は良い。
国鉄14系客車。この車両は発電機が搭載されているのでうるさい。だが、それが「らしさ」でもあるように感じる。
この夜の私の"巣"は増21号車B寝台。国鉄24系客車。向こうには青森のシンボル、青森ベイブリッジが見えている。
乗客。何を想ふ。
B寝台の 通路。狭いけど、なんとも言えぬ雰囲気がある。
開放B寝台。子供のころはこれが憧れだった。
JR最後の寝台客車列車。思う存分楽しみます。
開放B寝台といえばこれ、折りたたみ式の座席。
函館駅に到着。機関車交換のための40分近くに及ぶバカ停(ほめ言葉)。
函館駅では一大イベント、機関車の付け替えが行われます。
非電化区間のカマは1148号機。以前北斗星に乗ったときは本務機1083号機、前補機1137号機だったので、お世話になるのは初めて…にして最後か。
札幌駅定時着。7時間と49分、営業距離479.1キロの旅、はまなすとの別れはあっという間に終わってしまった。
惜別、国鉄の血を引く急行はまなす。
「日本を空から見てみよう」という番組をご存知でしょうか。最近仕事の都合であまり視聴できていないのですが、好きな番組です。この旅の前に、たまたま青森市周辺を取り上げる回があり、その中で紹介されていた青森市内にあるとあるお店の存在を知り、どうしても行きたいと思っていました。
あえてここでお店の名前は書きませんが、古く青函連絡船の時代からある商店で、店先で生姜味噌おでんを出しています(売り物はおでんだけじゃないですが)。青森では結構あるみたいです(青森市の名物)。青森市で生姜味噌おでんが発達したのは、寒い冬に青函連絡船を待つ客に出すためだったと、番組では説明していました(調べてみたら、Wikipediaにも生姜味噌おでんのページがあり、同じような説明が記載されていました)。そのお店も、そういった客におでんを提供してきたのでしょう。
行きたくなったのは良いですが、実は番組でもお店の名前は出しておらず、どうしたものか困っていたのですが、そこはネット社会。Google Mapを使って探し出したのでした(お店の前までは写っておらず、推定でしかありませんでしたが、うれしいことにビンゴでした)。
なぜその店に行きたくなったのか?それは青函連絡船時代からある店であるということ、そして店主のおばあちゃんが現役で働いていらっしゃるから。会話をしてみたかったんですよ。青函連絡船、青函トンネルの普通列車時代、そして新幹線時代と3つの時代を跨いで津軽海峡の鉄路を見続けてきた生き証人、そんな人と。
会話をしてみたかったと言っても、連絡船や列車がどうだとか、新幹線はどうだとか、そういう話じゃありません。そんなのどうだって良いんです。普通の会話をしたかった。天気の話、旅の目的、この後の予定…とか。聞いてみたらそれはそれで面白い話が聞けたのかもしれませんが、このときの僕の目的はそうではなく、旅人である僕と、おそらく今までたくさんの旅人を見送ってきたであろう彼女とのロールプレイング的な会話をしたかったのです。
少し津軽弁の混じったやさしい調子で話をしてくれて、とても満たされた気分になりました。(ちなみに僕は津軽弁が大好きです。僕の出身は津軽ではありません。親戚はもちろん友人・知人もおらず、縁もゆかりもありませんが、なぜか津軽弁に魅かれるんです。しゃべれるようになりたいなぁ)
これが、今回の旅の一番の収穫だったかもしれません。
人は二度死ぬと言います。一度目はその人本人の死。二度目は、その人を知っている、最後の人の死。昭和末期に生まれ、昭和の空気を運び続けてきた急行はまなす。その列車が廃止されるというのは、まるで昭和の二度目の死がまた一歩近づいたような気さえします。
たぶん、昭和時代からの列車にこれだけ思い入れをもって乗ることはこの先ないでしょう。はまなすとの別れは、言わば僕にとっての昭和とのひとつの別れだったのかも知れません。
2017.4.7 HIRO